大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和54年(行ウ)34号 判決

原告

上村治夫

右訴訟代理人

村山幸男

朝野哲朗

被告

東京都杉並区長

菊地喜一郎

右指定代理人

石川善則

外一一名

主文

1  原告が昭和五二年六月一一日付けでなした上村幸司に係る障害児養育年金の請求に対し、被告が昭和五四年三月七日付けでなした不支給決定を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

事実《省略》

理由

一原告が幸司(昭和三六年一一月二三日生)を養育する父親であること、幸司が昭和三七年六月二日東京都杉並東保健所で本件種痘を受けたこと、幸司が現在本症(重度精神薄弱、脳性麻痺、てんかん)により廃疾の状態にあること、及び、原告が幸司の本症は本件種痘に起因するものであるとして被告に対し障害児養育年金の請求をしたところ、被告が幸司の本症と本件種痘との間には因果関係が認められないとした厚生大臣の通知に基づき右障害児養育年金を支給しない旨の本件決定をしたことについては、当事者間に争いがない。

そこで、幸司の本症と本件種痘との間の因果関係について検討する。

1  〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  幸司は、父原告、母周子の次男として、昭和三六年一一月二三日正常分娩により出生した。母親が二九歳のときの分娩であつて、在胎月数は一〇か月であり、出血も少量で外科手術はなされず、胎児の位置も正常であつて、新生児仮死等もなかつた。出生時の体重は約三七〇〇グラムであり、新生児黄疸も普通であつた。原告と周子との間には、昭和三五年一月七日出生の長男のほか、三男と四男がおり、右三名は普通に成長した。以上の幸司の父母兄弟はもとより、父母の兄弟姉妹、祖父母にも運動障害、精神薄弱、脳性麻痺又はてんかんの症状を呈する者はいない。

(二)  幸司の本件種痘までの発育状況はほぼ正常であり、東京都杉並東保健所において昭和三七年四月一二日及び同年五月一七日に検診を、同月一二日にジフテリア・百日咳混合の予防接種を、同年六月二日に本件種痘を、同月九日に種痘後の検診を、それぞれ受けた時も特段の異常は指摘されず、右の四月一二日の検診の際は体重六七一〇グラム身長62.2センチメートル、五月一七日の検診の際は体重七八九〇グラム身長64.8センチメートルを示し、種痘後検診の成績も善感で、五月一七日の検診の後には、同保健所から、健康優良児大会の出場者に推薦するので検査に来るようにという通知を受けた。

(三)  ところが、幸司は、本件種痘後九日目である六月一〇日午後一二時ころになり、高熱を発し、両眼とも紫色に腫れ塞がつて目が開かない状態となり、手や足を突つぱつて身体をそらせたり、のけぞらせたりして暴れ、明け方近くまで泣き続けた。周子は、幸司の両眼を水で冷やしたりしながら、一晩中介抱した。

翌一一日明け方ころには、幸司はぐつたりとして静かになつたが、両眼の腫れは良くならなかつたため、周子は、朝八時ころ幸司を平沢眼科医院へ連れて行つて治療を受けた。しかし、同医院では簡単な治療しか受けられなかつたため、心配した周子は、引き続き松本眼科医院へ幸司を連れて行き診察を受けたところ、症状が重大だから慶応病院眼科へ連れて行くよう勧められた。そこで、周子は、同日午前一一時ころ幸司を慶応病院眼科へ連れて行き、眼部の診察を受けたが、両眼とも眼瞼が浮腫状に腫脹し、結膜のうがびまん性に腫大して、充血状態で混濁があり、左眼角膜下方の上皮が欠損している状態であり、両急性結膜炎及び左角膜糜爛と診断され、数種類の薬の点眼、注射等の治療を受け、両眼に包帯を巻いてもらい、点眼薬を渡されて帰宅した。幸司の発熱は、その後約一週間続いた(ただし、相当の発熱は最初の二日間だけであつた。)。また、幸司は、慶応病院眼科に同月の一二、一三、一四、一五、一六、一八、一九、二〇、二二、二五日と連続して両眼の治療を受け、同月一九日には目が開くようになり、症状が軽快したため同月二五日を最後に慶応病院眼科での治療を終えた。なお、慶応病院眼科の右治療期間中の診療録には、体温に関する記事や眼部以外についての所見は記載されておらず、他科への院内紹介等もされていない。

(四)  幸司は、同月一一日慶応病院眼科で眼部の治療を受けた後、ぐつたりとしたままその日はよく眠り、その後も両手をだらりとしてただおとなしく眠る日が続き、ミルクはあまりよく飲まなかつた。慶応病院眼科への通院開始後しばらくしてから、幸司は、両手を固く握りしめて腕を曲げ、胸の前で固定する姿勢をとるようになり、両手を開かせにくい状態になつた。また、慶応病院眼科への通院の末期又は終了直後ころ、幸司は、四肢の関節等に触れられると激しく泣き出す症状を呈し、そのころからしばらくの間野口医院に通院し、四肢関節痛ということで治療を受けたところ、右関節痛は軽快した。

(五)  周子は、幸司が慶応病院眼科で治療を終えた後も動作が鈍く不活発なので心配となり、同年八月二一日には松田小児科医院を訪れて診察を受けた。同医院では、当初食欲不振症という病名でビタミン剤の注射を受けたが、同年九月ころ脳性麻痺と診断され、ガンマロンの投与を受けるようになつた。なお、同医院の同年八月二一日の診療録には「九か月になるが座らない。頭が座らない。あやせば笑う。病的の反射はない。」旨の記載がなされている。

(六)  更に、周子は、昭和三八年二月一九日幸司を東京女子医大小児科へ連れて行き、歩行障害等を訴えて笠井医師の診察を受け、腰椎穿刺、髄液検査及び頭部X線撮影も受けたが、脊髄性小児麻痺ではないと言われただけで原因は分からず、脚をけること、手をつくこと、つかむことのけいこをしてガンマロンの服用も続けるようにとの指示を受けた。なお、同病院の右日付の診療録には、周子の説明として「四か月の時、結膜炎で通院中に角膜に傷がつき、三九度ないし四〇度の熱が二日間続き、慶応病院で診察を受けた。けいれんはなかつた。その後物を握ろうとしない。九か月ころよりお座りはするが、その後つかまり立ちはしない。」旨の記載がある。

(七)  また、周子は、同年四月二六日、幸司が風邪のため伊藤小児科医院で治療を受けた際、伊藤美喜子医師に対し幸司の発育遅延について相談した。同医院の右日付の診療録には、周子の説明として「五か月ころ種痘と混合ワクチンを行い、左眼瞼腫脹あり、四〇度発熱、嘔吐あり、ウンウンうなつていた。その後、座りもせず、少し発育が遅れた感があつた。」旨の記載がある。

(八)  幸司は、同年七月一〇日、日本心身障害児協会診療所の診察を受け、精神薄弱で発達年齢は満六か月半位と診断された。当時、幸司は、お座りはできるものの、つかまり立ちはできず、歩行不能で発語もない状態であつた。右日付の同診療所の診療録には、周子の説明として「頭位保定期五か月」と記載されている。また、周子は、右診察の際同診療所に提出した質問用紙に「五か月の時、右目の黒いところに傷をつけて顔が腫れ、その時、種痘の熱と目の熱で四〇度の熱が一週間位続いた。六か月のころ関節を痛がつた。」旨記載した。

(九)  幸司は、昭和三九年九月二九日、整肢療護園の村上医師の診察を受け、脳炎後遺症と診断された。当時、幸司は、頸定しており、お座り、つかまり立ちはできるものの、一人歩きはできず、上肢を余り用いようとせず、発語は全くないという状態であつた。また、同園の右日付の診療録には、周子の説明として「生後五か月で種痘をした少し後に右眼に傷を受け、四〇度位の熱が続き、ただおとなしく寝ていた。両手は、だらりとしていたが、両下肢の方は良く分からない。這い始めは一年五か月。お座りは九か月。五か月には優良児として表彰された。」旨の記載がある。

(一〇)  幸司は、昭和四〇年ころから、東京厚生年金病院で運動機能の訓練を受け、昭和四二年六月、同病院の指示により国立聴力言語障害センターにおいて、聴力、心理及び言語についての検査を受け、精神薄弱(重度)に伴う言語発達遅滞、運動機能は満一年三か月程度と診断された。なお、同センターから同病院への同月二日付の報告書には、右検査の際の周子の説明として「幸司は、生後六か月までは正常であつたが、六か月目、種痘接種後眼病をわずらい、発熱して意識不明となつた後、著しい発達遅滞と運動障害がみられた。」旨の記載がある。

(一一)  幸司は、昭和四三年八月ころ、布団にうつ伏せになつているときに意識がなくなり、救急病院に運ばれ酸素吸入中にけいれんを起こしたりしたため、同年九月二四日、東大病院神経科の診察を受け、精神薄弱(重度)と診断された。なお、同病院の右日付の診療録には、右診察の際の周子の説明として「幸司は、六か月のとき瞳に傷を受けて紫色に腫れあがり、その後一年半位両眼ともあきめくらの状態であつた。五か月で種痘を受け、その後一週間高熱が続き昏睡状態だつた。手足がぶらんとして、眼がすわつていた。頸定は三歳、お座りは四歳、歩行は四歳一〇月である。五か月までは笑いかけもあり、家族と他人の区別もつけており、健康優良児大会の予選までいつた。」旨の記載がある。

(一二)  昭和四五年に入り、我が国において種痘禍事件が発生し、種痘後脳炎が社会的関心を呼ぶようになり、同年七月三一日、予防接種事故に対する応急の行政措置を実施することが閣議において了解された。原告は、同年一二月、整肢療護園青山正征医師の同月一日付け作成に係る病名を種痘後脳炎後遺症とする幸司の診断書及び東大病院分院上出弘之医師の同月一五日付け作成に係る病名を種痘後脳炎による精神薄弱とする幸司の診断書を得、同日付けで東京都知事に対し、右閣議了解に基づく救済措置の一つである後遺症一時金の支給申請を行つたが、予防接種事故審査委員会から幸司の後遺症は本件種痘に起因したものとは認められない旨の意見が出され、昭和四九年五月九日付けで右支給申請を拒否された。なお、原告は、昭和四五年一二月七日付けで東京都知事に対し、「予防接種による健康障害者に対する見舞金等の支給に関する条例」に基づく障害見舞金の支給申請を行い、昭和四六年五月一一日付けで見舞金二〇〇万円の支給決定を受けた。そして、原告は、予防接種法等一部改正法の施行に伴い、昭和五二年六月一一日付けで被告に対し本件の障害児養育年金の支給申請に及んだ。

(一三)  幸司の本症は、非進行性の広範な脳障害によるもので、幸司は、現在も重度精神薄弱、脳性麻痺、てんかんの病名で東京都東村山福祉園に入園しており、その精神年齢は九か月であり、発語、そしやく力等を欠いている。

(一四)  脳性麻痺とは、発達期の脳に生じた非進行性の病変に起因する永続的な、しかし変容し得る運動及び姿勢の異常をいい、原因としては、出生前の脳奇形、胎内感染症、子宮内無酸素症、代謝異常、遺伝子病等、出生周辺期の無酸素症、異常分娩、核黄疸、脳外傷、脳出血等、出生後の各種脳炎、外傷等があり、症状は多様で、時に精神薄弱を伴うこともある。乳児期では診断が困難であるが、頸定不能、四肢の運動障害、精神機能の発達遅延等が診断の手がかりとなる。

精神薄弱の原因は、出生前の脳奇形、染色体異常、代謝異常、内分泌異常、母体内感染、遺伝子病等、出生周辺期及び出生後の無酸素症、脳出血、外傷、感染、中毒等である。最も多いのは、家族性精神薄弱であるが、この型では、身体的、生化学的又は神経学的異常は見られず、知能は魯鈍程度が多い。乳児期では診断が困難であるが、精神的及び身体的発育の遅れ、周囲への無関心等が診断の手がかりとなる。

(一五)  種痘後脳炎は、種痘によるアレルギー性の副反応を基盤として起こる脳炎又は脳症であるが、その典型的な臨床像は、脳炎の場合、発熱、嘔吐、頭痛、食欲不振などで始まり、意識障害、傾眠、昏睡、不穏、けいれん、健忘などの症状を示し、髄膜刺激症状、尿閉、便秘なども伴い、麻痺もしばしばみられる。脳症の場合は、多くは急激な経過をたどり、通常、発熱に伴つてけいれんが頻発し、片麻痺、言語障害もしばしば認められる。最も典型的な場合には、発熱、けいれん、意識障害がほぼ同時期に発生するが、種痘後脳炎の急性期の症状には症例によつて大きな差があり、けいれんや意識障害もはつきりしないことがある。種痘後脳炎の致命率は三分の一位であり、治つても、脳の不可逆的変化を生じさせることが多く、しばしば、脳性麻痺、精神薄弱、てんかん等の後遺症を残すが、特に脳症型のときに重大な後遺症が残りやすい。好発期は、種痘後四日目から一八日目までである。発熱は、一週間位続くものや、上昇と下熱を繰り返すもの等、その現われ方は症例により非常に異なる。けいれんも、両眼を上に向けて白目を出すか又は両眼を斜め上に向けて、四肢を強直させるか多少曲げて固定するか又は強直したままガクガク動かす型が典型的であるが、乳児の場合は瞬間的に息を詰めて顔色、顔付きが変わる程度で終つてしまう場合もあり、発見しにくいことが多い。更に、意識障害の程度も差が大きく、数時間の例もあれば、数日間続くこともあり得る。

2  被告は、正常な小児の頸定は満三か月ないし四か月であるところ、幸司の場合、生後九か月目になつても頸定しておらず、本件種痘以前から既に発育遅滞がみられる旨主張する。

確かに、1の(五)で指摘したとおり、松田小児科医院の診療録の昭和三七年八月二一日の欄には「九か月になるが座らない。頭が座らない。」旨の記載がある。右記載は、医師が右時点で幸司を診察したうえで行つたものと考えられるから、もとより軽視することはできないが、「九か月になるが座らない。」との記述が先行していることからすれば、右は座位の安定に重点を置いた記載と考えられ、また、右診察時の病名「食欲不振症」からすれば、診察当時に幸司が衰弱状態にあつたことが推察されるのである。そして、1の(五)でみたとおり、幸司は当時既に動作が鈍く不活発になつていたことをも考慮すると、右の記載のみを根拠として、幸司が本件種痘前から頸定していなかつたものと認めることは相当でないというべきである。かえつて、1の(六)のとおり、昭和三八年二月一九日の東京女子医大小児科の診察の際には、幸司は既にお座りをし、その診療録にも「九か月ころよりお座りはするが、つかまり立ちはしない。」旨の周子の説明が記載されており、1の(八)のとおり、同年七月一〇日の日本心身障害児協会診療所の診療録にも周子の説明として「頭位保定期五か月」と記載されていること、更に、1の(二)のとおり、昭和三七年の四月一二日、五月一二日、同月一七日、六月二日及び同月九日の東京都杉並東保健所における検診等の際何ら異常を指摘されず、体重増加も順調で、かえつて同保健所から健康優良児大会の出場者に推薦するので検査を受けるようにとの通知を受けたこと、既に一児の親である原告及び周子が本件種痘以前には幸司の発育遅滞について医師等に相談した形跡のないことに照らせば、幸司は五か月ころには頸定していたものであり、本件種痘までの発育はほぼ正常であつたと認めるのが相当である。

3  次に、被告は、幸司が昭和三七年六月一〇日午後一二時ころに発熱し、右発熱が約一週間続いたという事実はなかつた旨主張する。

確かに、幸司は同月一一日から同月二五日まで慶応病院眼科で眼の治療を受けているにもかかわらず、1の(三)のとおりその診療録には発熱の記載がなく、他科への院内紹介等もなされていない。しかしながら、そのことから慶応病院眼科における右治療期間中幸司に発熱の事実がなかつたと断ずるのは早計である。すなわち、証人上村周子の証言から明らかなとおり、周子は同月一〇日夜半から幸司の眼の重篤な異常に動転し、失明することを非常に心配していたもので、種痘後には発熱することがあると思つており、幸司も明方には静かになつたというのであるから、慶応病院眼科での初診の際には発熱のことについてはつきり告げなかつたということも十分あり得ること、診療したのは眼科の医師であつて他科の医師に比べれば発熱についての留意程度が低いと考えられること、同眼科では幸司の疾病を両急性結膜炎、左角膜糜爛と結論づけており、原因究明のため積極的に検温した形跡のないこと、証人青山正征の証言によれば、種痘後脳炎による発熱の場合には一週間の発熱といつてもその間常に高温を持続するというのではなく、いつたん下熱し再度高熱になることの繰り返しが続くときもあることからすれば、慶応病院眼科の診療録に発熱の記載がないことのみをもつて発熱の事実を否定するのは相当でない。そして、1の(六)のとおり、慶応病院眼科での受診からそれほど間がない昭和三八年二月一九日の東京女子医大小児科の診療録に周子の説明として「四か月の時、結膜炎で通院中に角膜に傷がつき、三九度ないし四〇度の熱が二日間続き、慶応病院で診察を受けた。」旨記載されていること、1の(七)のとおり、同年四月二六日の伊藤小児科医院の診療録に周子の説明として「五か月ころ種痘と混合ワクチンを行い、左眼瞼腫脹あり、四〇度発熱、嘔吐あり、ウンウンうなつていた。」旨記載されていること、1の(八)のとおり、同年七月一〇日に日本心身障害児協会診療所に提出された周子作成の質問用紙に「五か月の時、右目の黒いところに傷をつけて顔が腫れ、その時、種痘の熱と目の熱で四〇度の熱が一週間位続いた。」旨記載されていること、1の(九)のとおり、昭和三九年九月二九日の整肢療護園の診療録に周子の説明として「生後五か月で種痘をした少し後に右眼に傷を受け、四〇度位の熱が続き、ただおとなしく寝ていた。」旨記載されていること、1の(一〇)のとおり、昭和四二年六月二日の国立聴力言語障害センターの報告書に周子の説明として「六か月目、種痘接種後眼病をわずらい、発熱して意識不明となつた後、著しい発達遅滞と運動障害がみられた。」旨記載されていること、1の(二)のとおり、昭和四三年九月二四日の東大病院の診療録に周子の説明として「五か月で種痘を受け、その後一週間高熱が続き昏睡状態だつた。」旨記載されていること、以上の周子の医師に対する説明は、種痘後脳炎が未だ社会的関心を呼ぶ前のものであり、幸司の疾病を殊更種痘後脳炎に結びつけようとする意図の下になされたものではなく、幸司の治療のためできるだけ記憶に忠実になされたものと考えられることに照らせば、1の(一二)のとおり、幸司は昭和三七年六月一〇日午後一二時ころから一週間発熱し、最初の二日間は相当の高熱であつたと認めるのが相当である。

4  その他、1の認定を覆すに足りる証拠はない。

5  そこで、以上の認定の事実に基づいて本症の原因を考える。

(一)  まず、重度精神薄弱、脳性麻痺、てんかんという幸司の本症につき、出生前及び出生周辺期の原因がうかがえるかを検討するに、幸司の父母兄弟、父母の兄弟姉妹、祖父母には幸司と同種の症状を呈する者はおらず、遺伝因子の関与をうかがうことはできない。更に、幸司は、はつきりした発育異常が現れて間もないころから現在に至るまで何度も各種医療機関で診療や検査を繰り返しているにもかかわらず、医師からはその原因につき不明と言われるか、脳炎後遺症又は種痘後脳炎後遺症と言われているだけなのであるから、幸司の身体には、出生前の特殊な原因を推測させるような奇型的要素はないと推認される。また、幸司の出産には何らの異常も認められず、新生児仮死、重症黄疸等もなかつたのであるから、出生周辺期には脳障害を引き起すような原因はなかつたものと推断すべきである。

ところで、小児神経学を専門とする医師である証人青山正征は、出生前又は出生周辺期に原因のある精神薄弱・脳性麻痺の発症の仕方について、「脳性麻痺では最初から運動機能の発育の遅れがあり、精神薄弱も、脳性麻痺ほどではないが、初期から運動・精神機能の発育の遅れることが多い。また、進行性の原因がある特別な場合を除き、成長後に重度の症状が存在する場合には脳障害も重度なのであるから、一般的には最初からその発症の仕方も強かつたはずである。そして、乳児期における診断が一般に困難であるにしても、満五か月ごろには運動・精神機能の発育の遅れがかなりはつきりする。」旨証言している。幸司の場合も、非進行性の広範な脳障害が存し、極めて重症の精神薄弱、脳性麻痺等として発現しているのであるから、それが出生前又は出生周辺期の原因によるものであれば、遅くとも本件種痘のころには運動・精神機能の発育の遅れや四肢の運動障害等が発現していたはずである。しかるところ、前叙のとおり、幸司は、昭和三七年六月九日までの東京都杉並東保健所における数次にわたる検診において何ら異常を指摘されることなく、健康優良児大会の出場候補にもなつたくらいで、本件種痘前の発育はほぼ正常であつたと考えられ、本症の発現を認めることができないのである。したがつて、出生前又は出生周辺期に本症の原因があつたとは考えにくいといわなければならない。

(二)  ところが、幸司は、前叙のとおり、本件種痘のすぐ後に顕著な発育遅滞を示し始め、昭和三七年九月ころには松田小児科医院において脳性小児麻痺と診断されるに至るのである。

そこで、本件種痘後において種痘後脳炎の急性期の症状が現われているかを検討するに、幸司は同年六月二日に本件種痘を受け、同月一〇日午後一二時ごろ発熱し、約一週間発熱状態が続いているのであるが、右の時期は種痘後脳炎の通常の好発期に当たり、発熱は種痘後脳炎の急性期の典型的症状の一つであるから、右発熱は種痘後脳炎による可能性が強いといえるのである。更に、1の(四)のとおり、幸司は右の発熱のすぐ後に野口医院において四肢関節痛の病名で治療を受けているが、証人青山正征の証言によると、右は種痘後脳炎の急性期の症状の一である髄膜刺激症状とみることが可能である。種痘後脳炎の急性期のその他の典型的症状であるけいれん、意識障害については、幸司に発生したか否か明らかでないが、幼児の場合発見しにくいことが多いことを考えると、その発生を否定することはできず、ミルクをあまり飲まず、ぐつたり眠つていることが多かつたことからすれば、意識障害が発生したとみる余地はあり、少なくとも傾眠は肯認できると考えられる。更に、食欲不振が発生していることは、1の(五)で指摘した同年八月二一日の松田小児科医院の食欲不振症の診断で明らかであり、嘔吐についても、1の(七)で指摘した昭和三八年四月二六日の伊藤小児科医院の診療録に記載された「嘔吐あり」との周子の説明により発生を疑えるのである。もともと、種痘後脳炎の急性期の症状には症例によりかなりの差があり、発熱、けいれん、意識障害等が常に同時期に発生するとは限らないのであつて、幸司の場合、けいれん、意識障害の発生が必ずしも明らかでなく、典型的な種痘後脳炎とはいえないまでも、右のように種痘後脳炎の好発期に発熱があり、引き続き髄膜刺激症状とみれる症状が現われ、傾眠、食欲不振も発症していることからすれば、種痘後脳炎を罹患した可能性が極めて強いというべきである。

一方、本件種痘以外には、出生から右のとおり松田小児科医院で初めて脳性小児麻痺と診断されるまでの間において、幸司が本症の原因となるべき各種脳炎、外傷、その他の疾病に罹患したことをうかがわせる証拠は何ら存しないのである。

(三)  以上のとおり、幸司の本症につき出生前及び出生周辺期の原因をうかがうことができないこと、本件種痘までの幸司の発育はほぼ正常であつたこと、ところが本件種痘のすぐ後に発育遅滞を示し始め脳性小児麻痺と診断されるに至つたが、出生から右診断までの間において、本件種痘以外に本症の原因となるべき疾病の罹患を認めることができないこと、そして、種痘後脳炎の好発期において、幸司は発熱し、引き続き髄膜刺激症状、食欲不振、傾眠の症状を呈しており、これらは種痘後脳炎の急性期の症状の一つであることを総合し、かつ、〈証拠〉並びに証人青山正征の証言に照らせば、幸司の本症は本件種痘に起因するものと認めるのが相当である。

判旨 二したがつて、幸司の本症と本件種痘との因果関係が認められないので予防接種法等一部改正法附則三条一項の認定をすることができないとした昭和五四年二月五日付け厚生大臣通知は、判断を誤まつたものというべきである(厚生大臣の右判断は公衆衛生審議会の意見を聴いたうえで行われるものであるところ、証人長谷川慧重の証言によれば、本件の審査に当たつた同審議会の予防接種健康被害認定部会の中の特別委員会では、原告から提出された給付請求書に添付されていた慶応病院眼科の診療録に幸司の発熱、けいれん、その他の神経症状の記載がないことを主たる根拠として前記因果関係を否定すべきものと判定したことが認められるが、右診療録の記載のみで発熱等の事実を否定できないことは前認定のとおりである。)。そうすると、右通知に基づいて行われた本件決定も違法といわざるを得ず、本件決定の取消しを求める原告の本訴請求は理由がある。

三よつて、原告の請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(佐藤繁 泉徳治 菅野博之)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例